mja

クソ

すごく気軽な表現でいい。
もともとは排泄物という下品なものをさす言葉であり、形容的な言葉として用いられると、どちらかといえばネガティブな評価や、マイナスの評価になる(この番組はクソだ、とか、クソ野郎とか)のが従来の "クソ(に類する言葉)" の姿であったが、今や程度表現として使われることも一般的になっている(クソ便利、など)。
こういったネガティブな評価の表現でありながら極端な程度を示す言葉として用いられるものは、多分にあって(これはひどい、という評価表現と、ひどく便利、という程度表現など)、クソという表現もこの種の言葉であると考えることができると思う。ネガティブな評価を示す言葉が、程度の表現(しかもその程度が極端であることが多い)というポジションを得ると、場合によってはポジティブな評価を示す単語として用いられるという可能性が出てくる。たとえば、"すごい" という言葉は恐ろしいとかぞっとするとかどちらかといえばネガティブな意味を持っていると同時に、程度の表現としても使われてきた。程度表現の言葉は、その単語のみで用いられる際に暗黙の評価表現の補完が行なわれるということがよくあるが、そうやって使われていくうちにいつのまにか、その程度表現自体が評価を表すものになってくることもあると考えることも可能だろう(すごくかっこいい→すごい、など。ただし、厳密な意味が求められる場合には程度表現としてとられることが多い。たとえば、部下が「これすごいですよ」と言ったのに対して上司が「どのようにすごいの?すごく良いの?すごくわるいの?すごくどうなの?」と聞き返すような場面は想像にかたくない)。"やばい" という言葉もこれに近いところまできているように思う(しかし、やばい、の場合は程度表現としての自立性が弱く、"やばいくらい" などという形で使われることが多い。かなりくだけた場合、やばいかっこいい、やばい臭い、などの形で使われることもあるが、さほど一般的ではなく、年配者には通じない可能性がある)。
こういった例をみると、いずれ、クソ、ということばも最高にクールな表現として定着することも十分ありうるのではないだろうか。実際、外国語でもスラングなどは、馬鹿にする意味と、称賛する意味と、両方を持ち合わせていることが多い。やばい、ということばだけをみたとき、危機的状況を表しているのか、クールであるといっているのか、殊若い世代においては、文脈なしでは意味をとりにくくなっている。今現在、我々が、クソ、という言葉をポジティブな意味で受け入れられないとしても、今後どうなっていくかはわからない。もしかすれば、どこかではすでに、"ポジティブのクソ" が存在するかもしれないのである。そこではきっと以下のような会話がなされているであろう。
「おまえ何そのクツ、超クソじゃん」「やべーっしょ。俺も超クソだと思ってさー」「まじクソだわ」
「あ、今日サッカーやってるじゃん。(テレビつけて観戦しはじめる)あ、やべーっ!入った!!クソーッ!」
「今日のライブクソじゃなかったー?」「だよねー、ってかあのドラムの人かなりクソじゃなかったー?」「わかるー」
とてもクソな会話である。そして何より最高にクソなのはこの文章を2時間近くかけて携帯から打ち込んでいる自分である。まじクソだわ。